人と群れるのは好きじゃない。

むしろ嫌だ。

でも生きていくなら、歌いたい。

客席じゃなくて舞台にいたい。

喉に痺れる高音を流しこみたい。

だからお父様、僕は待っています。



    ――――Angel Of Musicを。









   オペラ座の怪人









僕は唯の、舞台袖で踊る役もないコーラスだった。

『ハンニバル』の舞台のリハーサル、僕は僕なりに踊っていた。



まぁ『夢見てるような子』なんて言われたけど…

僕自身、そうは思ってない。

踊る時のしっかりと指の先まで神経を研ぎ澄ます感覚は嫌いじゃない。

思いきり身体をしならせるのも悪くはない。

ぱらぱらと耳元で散っていく髪の、その一本一本の囁きも好き。

それにオペラ座の衣装はいつも華やかで、踊っているときは本当にその世界にいるようだった。



リハーサルはいつも通り。

…今日は新しいパトロンがリハーサルを見にきたが、まぁ僕には関係ないだろう。

いつも通り。



オペラ座の怪人が悪戯をしたことも。



いつも通り。

でも今日の悪戯は少し怖かった。

プリマドンナのカルロッタが歌っているときに、天幕を落としたのだ。

命に関わるイタズラ。

そのせいでカルロッタは歌わないと言って、飛び出していってしまった。

でもそのおかげで僕はプリマドンナの代役をもらった。



怪人も聞いているのだろうか?

いつも空いている五番のボックス席で。



「ブラボーっ!!」



反対側のボックス席から、馬鹿みたいな声がする。

あぁ、ボックス席にいるなんて…

いったい何処の金持ち何だか。

僕には関係ない。







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楽屋。



ここには僕しかいない。

“プリマドンナ”専用の楽屋。

見渡すととても豪華な、それでいて落ち着いた作りだった。

大きな姿見も、初めてみる。全身がうつるほどの鏡なんて。

…本当に、何もかもが煌びやかだった。

とりあえず適当に白いローブを羽尾って、適当な椅子に腰かける。

だけど“適当”に手にとる全ての物が、いままでの世界とあまりにも違いすぎた。



トントン。



古い木目にノックの音が染み込む。

ドアを開けると背の高い男の人が立っていた。

…たしか、ボックス席にいた人。



「キョーヤ・ヒバリ。君のスカーフはどこにいったんだ?」

「…誰?」

「なくした、なんて言うなよ。けっこう頑張ってとってきたのに。」

「そ、それは君がスカーフ捕まえようとして海にザブザブ入ってったんでしょ!!」



そう言っても、くすくす笑うだけ。

こんな優しく、いたずらそうに笑う貴族なんか…

たった一人しか知らない。



「ディーノ!」

「よかったキョーヤ、覚えててくれたんだな!小さいころはあんなに毎日遊んだのに!」



それでも僕はこの優しい腕のなかにいてはいけない。

音楽の天使は、僕にとても厳しいから。



「キョーヤ、一緒に夕食でも食べにいこう。」

「あ、ディーノ。ダメ、この後先生と…」

「成功した日なんだ。一日くらい祝ったって怒られないよ。帽子とってくるから。」

「待って、ディーノ!! …僕たちは、あのころとは違うんだよ。」



パタンと扉が閉まる。

また僕は楽屋に一人ぼっち。

とりあえず僕は扉にカギをかけた。

金属の音が外界から僕を、完全に切り離す。



「…この上流気取りが。この僕の宝物を奪おうなんて、命知らずもいいところですよ。」



そして耳から入って体が痺れるような声が響いた。

不機嫌な感情が耳を伝ってドロリと、僕の体に流れ込んでくる。

彼の声は… 僕のすべてを壊してしまう。



「ねぇ、Angel Of Music… ここに来て。ディーノと会った、僕を許して。僕は君に会いたい。」



いるって知っているから、あえて誰もいない空間に僕は語りかける。

やっぱり返事はすぐに返ってきた。この声が、心地よい。



「ヒバリは可愛いですね。 …教えましょう。僕が闇に住む訳を。鏡に映る自分の顔を見て下さい。僕はその中に。」



天使が―――

亡くなったお父様が使わした音楽の天使が、僕を誘っただけ。



何を疑う必要がある。

僕はその大きな鏡の前に立った。

いくら覗き込んでも闇と自分の姿しか写っていない。



「Angel Of Music、もう隠れないで。傍にいて…、僕の天使。」



硬く冷たい鏡に縋る。だってAngel Of Musicは死んだお父様が残してくれたただ一つの宝物。

…僕に優しくしてくれる、お父様の代わりのようなもの。



「僕はヒバリ、君だけの天使――― ここへおいで、音楽の天使のところへ。」



鏡が歪んでいく。

そっと僕を抱きしめる腕がある。

胸元に顔をうずめてしまったから、顔は見えないけれど誰だかは分かる。

Angel Of Music…



「…いったい誰の声だ。中に誰かいるのか。キョーヤ!」



乱暴にドアを叩く音が聞こえる。きっとディーノだ。

でもディーノが部屋に入るころ、僕はもういないだろう。

だって僕は今、Angel Of Musicの手の中なんだから。







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オペラ座の地下は奇妙だった。

こんな空間が存在することを、いったい誰が知ってるんだろう。



「眠る僕に歌いかけた人。ねぇ、これも夢? …The phantom of the opera is there。」

「また一緒に歌いましょう。君を包む僕の力は強くなるばかり。たとえ君が顔を背けても、振り向けばそこに。」



――――――The phantom of the opera is there inside your mind.

果てしなく長く続く階段。地上から離れていくんだと、確信させる橋たち。

霧がかる水路には無数の蝋燭が怪しく瞬き、僕は小船でその水路を進んでゆく。



「僕は、貴方の仮面になるよ。」

「君の歌声に、人は僕の心を聞く。僕の心と君の歌は一つに結ばれ、オペラ座の怪人は君の中に。」



そう言って、怪人は手のひらで僕の左胸をなぞった。

オペラ座の怪人は醜いなんて、いったい誰が言ったんだろう。

僕の目の前にいる人は、とても美しい歌を歌うじゃないか。

マスクの無い方の顔は、こんなにも僕を虜にする。



「歌え、可愛い僕だけの音楽の天使!」



声が僕に染みていく。

脳を思考を、熱く焦がしていく。

歌わずになんて、いられない。



「歌え、僕のために!」









闇の帳に閉ざされて、ここは愛の迷宮。







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小船の上で眠っていたヒバリが、目を擦りながらゆっくりと起き上がった。

クッションが沢山積んであり黒いマントを被せてやれば、小船はそのまま寝台となる。

…僕は、ヒバリを、攫って来た。



「ん…、ここどこ…。」



その声を初めて聞いたとき、美しいと思った。

僕の音楽が、ヒバリの声を求めて荒らぶる。

閉ざされた地下の世界で高く昇りゆく夜に見る夢の中で、僕の創造は花開く。

感覚は鋭くなって、その鎧を脱ぎ去って。

ゆっくりと、闇はその輝きを湛えてゆく。

僕は跪いて、そっと、ヒバリの細い腕をとった。

見上げた顔は、困惑を湛えている。

これぞ、僕が舞台から奪った 秘宝。



「此処は、音楽の王国。冷たい太陽から逃げた、夜の調べの住まい。」

「…僕を、どうするの。」

「ヒバリ、貴方は欲しくありませんか?夜の調べが。」



すこし警戒するように僕の前に立つ。

でもそれは平生のヒバリの姿ではない。

お父様の“音楽の天使”に陶酔した姿。

期待を孕んだ目で僕を熱く見つめている。

僕は誘うように囀りながら、ヒバリの背中を抱いた。

歌は耳元で歌えばいい。



―――取り巻く音楽たちに耳を傾けて。

心を解き放ちましょう。夜の闇の中へ共に。

自分の声を正直に聞いて。そう、魂が求めるままに。

漂って、そして落ちてゆくのです。甘美なる陶酔に。

僕に触れて、そして訪れる感覚を一つ残らず楽しんで下さい。

…キモチイイと、思いませんか。

心の闇を、全て僕に委ねてくれればいいんです。

ヒバリは強く拒絶する故に、音楽に陶酔する。

酔ってしまえばいい。音楽に、魅入られてしまえばいい。



「ム… クロ、僕に夜の調べを教えて。」



可愛くそんなことを言うから。

…あの貴族の気持ちも、分からなくもないですがね。

肩から背中、腰、胸元から首筋へ… 撫ぜる度、跳ねる身体を愉しみながら。

その黒曜石の瞳は、戸惑いを含んで僕を見上げるときとても大きくなる。

小さな耳に、夜の調べを段々に、怪しげな闇を囁きましょう。



「ヒバリ。僕を見つめてください。」



君の無防備な目が僕を直視したのなら、凛として寂しい心が僕を求めるのなら

僕は今しばらく君が求めるお父様の“音楽の天使”になっても、構いません。





ほら君はこうやって 赤い瞳に堕ちてゆく