世の中にはどうでもいいことなんて沢山ある。 戦の世だ。話せないヒミツだって山ほどある。 自分にとって、どうでもいいことも 他人にとって大切なことだってある。 分かっていた、つもりだったのだ。
しかし――― これほどまでに心乱されるものだとは、知らなかった。
瀬戸際
頑丈なことくらいしか取り柄がない奴が、戦で怪我をしたという文があった。 『おうむ』とかいう鳥が、足にそれを括り付けて持ってきたのだ。 この鳥は、奴に似ず賢い。この安芸まで何者かに連れられて、あとは一羽で飛んできたのだから。 しかし、船着場から城、城から我の部屋… という道順を覚えたのは、何度も通った経験からだろう。 奴は「お前、動物といると少し丸くなるな」とかほざいて、毎日つれてきていた。 そう、もう嫌になるくらい毎日毎日… それが最近ぱったりと途絶えて。そうしたら突然の、おうむの訪問。 なるほど、怪我のせいで来れなかったというわけか。
書類を片すために手は動くが、思考は遥か瀬戸内の向こう岸。 おうむはといえば、どうしてか我に懐いていて机の端からこちらを伺っている。
もう視界に入るな。
これ以上は無理だと、筆を適当に片して背中から床に倒れこんだ。 夕日が我をくれないに染め上げて。文は欲しい言の葉など、くれはしない。 もう目に入るのは天井の木目だけだというのに。 畳の香りにすら、脳内の大海原は負けることなく。 鮮やかな羽をみると、奴の顔だけしか考えられなくなる。 でも、頬のくれないは日輪のせい。
来れない理由もある。乱される理由は、ない。何故、これほどまでに…
…来ないのなら、行ってやろうか。
混沌からふっと浮かび上がる思考。 これは気分。何の考えも策もない、ただの気まぐれ。 我が仕事を投げ出すくらいの、奇跡的な確立で芽生えた、気まぐれ。 ため息とともにこめかみを押さえると、窓枠に止まるおうむが自然と目に入った。 くちばしが、飼い主の名をつむぐ。 嗚呼、その名前の音すらも懐かしく思う。 でも気まぐれすら、所詮はただの心なのだと気づくにはもう少し時間が必要だった。
「はっ、なんかかっこわりぃな。」
元就が城を訪れたとき、元親は部屋で休んでいた。 いつもの服ではなく、寝るのにふさわしい白の着流し。 案内も無しに勝手に元親の部屋まで、元就は一人で来たのだ。 慣れたように、ただ一箇所を目指して歩く。 元親と元就の仲を知る者たちは、けっして元就を止めることをしない。 ただ通りすぎたあとに囁きあうのだ。 珍しいこともあるものだ、と。 そして、そう言われてることを、元就は知らない。 知らないまま、胸におうむを抱いて元親の部屋の障子を開き、今、布団のよこに座っている。
「お前ともあろうものが、珍しいな。」
あえて何がとは言わないのは、元就の優しさなのだろう。 しかし、布団の上で胡坐をかいていた元親は帰ってきたおうむと遊んでいた。 元親が、元就がいるのにそちらに見向きもしないのは、おかしい。 鋭い元就がそれに気づかぬわけもなく。
「元親、何かあっ「豊臣が攻めてきたんだ。」
遮るように、元親は言い放った。 やっと、二人の目が合う。 元就の目には、元親の取り繕うような笑みが映り。 元親の目には、元就の見開かれた瞳が重なった。 おとずれる静寂。 それは瀬戸内の潮騒に似ている。
「まぁ、追っ払ったけどな。四国の鬼もなめられたもんだぜ。」
元親は自慢気に言うも、傷を負ったという事実は変わらない。 元就の綺麗な面影が微かに歪んだ。
「……。」 「我は死体に抱かれる趣味はないぞ。」
そう言って元就は、そっとしなやかに寄り添う。 淡白な物言いとは裏腹に、その細い両の腕はしっかりと元親の首の後ろへ回され。
「目の前から消えた奴など、忘れてくれる。」
包帯の上をその指を持ってなぞり、元親をゆっくりと押し倒した。 優しい触れ方は、忘れてなどやるものかと縋るくせに。 言葉と行動がかみ合わない様を見て、元親はただ苦笑いを繰り返すしか出来なかった。
「心配したのか?」 「ああ。死ぬな。死ぬでない。」
もし此処で死を偽りでも望んでしまえば、きっと連れて行かれるだろう。 人は死を前に晒されると、極端に素直になるものだ。 たとえ日ごろは天邪鬼だとしても。 見上げる元就の瞳は真剣そのもの。 そして… その目できっぱり、言い切るから。
「あぁ… 溺れるのなんか、初めてだ。」 「我はとうに、沈んでおる。」
自らの心に、引きずられていく。 たとえ足掻いても意味がない、深海へ。
堕ちる 今が瀬戸際
「これもお前の手の内か?」 「…計算外だ。」
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